巡る。
人の巡り合わせというのは本当にあって。
出会った人が悪ければ、しばらくは人の巡りは悪いし。
良い人と出会えばその先ずっと人の巡りがいい。
たとえ悪い人が良い人に悪意ある手で触れようとしても、良い人の周りにいる良い人がきっとその手を振り払ってくれるから。
そして良い人は、その人が悪い人だと分かっていても手を差し伸べてくれるから。
悪い人の周りには悪い人がいて、良い人の周りには良い人がいるから。
だから事実に、ほんの少しの願いを込めて言う。
「これだけ人の巡りが悪かったのだから、これからは良い人と沢山巡り会う」
出会いは一度きりのもので、あなたにとっての悪い人は一頻り出払った、だからあとは良い人しかいない。
大丈夫。
少しだけ。
この間、ある人に私の描いた絵を見せた。
そしてこう言われた。
「これはあなたの特技だね」
私は戸惑い一瞬口を噤んだ、何故なら今まで生きてきてずっと、私は人より秀でたことが1つもない人間だと思って生きてきたからだ。
人並みにはできるがそれを超えることは決してないと、そう思って生きてきた。
だから、絵を描くことが特技だと言われて戸惑ったのだ。
今までの私なら、確実に否定していただろう。
「そんなことはない、そんなものは誰だって描ける」と。
でもこの時は、一瞬戸惑い少し間を空けてからこう答えた。
「そうですね」
気恥ずかしかったし、この一言を言うだけでかなりの勇気を使った。
けれど、とても気持ちがよかった。
喉につかえていた物がストンと胃に落ちたような、清々しい気分だった。
私は私を少しだけ誇らしいと思えた。
私の絵は私しか描けないし、とても上手とは言えない絵だけれど、私は私の絵が好きだと心から思える。
それは少し、大嫌いだった自分を好きになれたということなのだろう。
あれが欲しい。
家族のこと。
本当は自分の気持ちを話して、「協力して欲しい」とお願いしたい。
けれど今更それは出来ない、その訳は私のつまらないプライドと、今までに何度も味わってきた家族への失望。
家族は皆なから私の話を聞く気がない。
聞く気がないなら黙っていて欲しい。
そっとしておいて、心の中で嘲笑っていていいから、触らないでほしい。
いつもそう、心の水面を一瞬たりとも揺らさぬように過ごしているのに、あの人たちはそこへ容赦なく小石をなげる。
波紋を広げ、大きな波にする。
それでも本気で嫌い憎めないのは、家族だから、親子だから、兄弟だから。
家族の絆が呪いになって、それを許さない。
贅沢な文句なのかもしれない、いやそうなのだろう。
毎日くだらない冗談を言い笑い合える家族が近くにいるだけで、十分幸せな話しなのだろう。
分かっている。
けれど私は、私の持っていないものをどうしても飽きらめることが出来ない。
何をしたって手に入らないと分かっていても、望んでしまう、願ってしまう、渇望してしまう。
そうやって今日も、隣の家の芝生を眺め指を咥える。
頑張る。
「「頑張れば」出来る、は出来ないこと」
そう言われた時「あぁ、私今まで頑張ってたのか」そう思った。
それ以来「頑張る」という言葉が少し、怖い。
誰かに「頑張れ」と言われれば、暗く底の見えない穴に突き落とされた気分になる。
誰かに「頑張れ」と言えば、誰かをその穴に突き落とした気分になる。
コンプレックス。
私は、私の容姿に一切のコンプレックスがない。
とびきりの美人でも、モデルのようなスタイルをもちあわせている訳でもない。
普通の可もなく不可もなくな容姿で満足している。
それはただ単に、己の見た目にあまり興味が無いからなのだろう、故に化粧もしなければファッションにもかなり疎い。
だけれど中身はコンプレックスの塊だ。
自分の嫌なところなら無限に言えるほどに、私は私の中身が嫌いだ。
己に疎いが故に自分が分からないでいる、理解出来ないでいる。
1番聞かれて困ることがある、
「特技は何ですか?」
私は大体のことは人並にできる、ただ人並み以上に出来ることがないのだ。
あまりにも平々凡々過ぎて、ないのだ。
だからいつも、当たり障りのない平凡な答えを用意して、それを答えていた。
でも今は少しだけ胸を張って答えることが出来るかもしれない、と思うように、思えるようになってきた。
短期間で目まぐるしく色んなことが起きたせいか、その流れに乗って行動を起こしたからなのかは分からないけれど。
ずっと俯いて立ちすくんでいた私は、相変わらず立ちすくんではいるものの、少しだけ顔を挙げられているような、そんな気がする。
ゆっくり、まるで小動物のように周りの様子を伺いながら、怯えながら、チラとだけ前を向けた気がしたんだ。
己の足が置かれている道のその先を、朧気な明日を。
もしかしたらこのまま、1歩を踏み出せるのではないか、と淡く儚い想いを今日も抱く。
そして想う「あぁこれは、幻だ」と。
思考。
他人の意見を聞いて鵜呑みにして、さも自分の意見のように周りに発信したりはしたくない。
考えることを辞めたくない。
考えることを辞めるとゆうことは、自分であることを辞めることだと思う。
私は私で在りたい。
でも、考えないようにして他人の意見に流されている方が楽なのも知っている。
だからもどかしいんだ。
あの時みたいに。
下を向いて足元ばかりを見続けていたけれど、最近はほんの少し顔を上げ、周りをキョロキョロするようになった。
これはきっと良い傾向なのだろう。
今まで私がやってきた行いは「償い」なんてたいそうなものではなく、引きこもるための体のいい言い訳だったことに気がついてから、少し意識が変わったのかもしれない。
沢山の人と話して会いに行って、少しずつだけれど再び一歩を踏み出せるような、そんな気がするんだ。
体力的にも精神的にもまだかなりキツイ、けれどここでまた辞めてしまったら、次は無いかもしれない。
「やっぱりあの時に」という後悔だけは、もうしたくない。
失敗してもいい、怖くても、出来ないことは助けてもらおう、そうやって少しずつまた前へ進みたい。